パレット久茂地の那覇市民ギャラリーで、「沖縄の縮図 伊江島の記録と記憶」展を見ました。
あまり知られていませんが、1948年8月6日、伊江島で県内最大の米軍爆発事件がありました。米軍の爆弾処理船LCTが伊江島の波止場で爆発したのです。
5000発の爆弾が積まれた船が爆発して船体は350m先まで吹き飛び、家屋が全焼、住民は焼死。港は0歳から67歳まで100人を超す遺体が散乱していたそうです。
1945年4月、伊江島は雨あられと砲弾を受け、アメリカ軍に占領されました。住民は強制移住させられ、米軍は日本本土を空襲するため、大量の爆弾を島に集積。戦後、ようやく島に戻った人々が見たのは、野積みされた砲弾の山、山、山。伊江島は「爆弾の島」になっていたのです。
早く爆弾を処理してほしい。島民の要請もあり、1948年7月、米軍は爆弾の海洋投棄を始めます。
8月6日も朝からLCTと呼ばれる揚陸艇に爆弾を積む作業が行われていました。夕方5時、本島からの連絡船が港に入り、波止場に人が溢れていました。その瞬間、大爆発が起きたのです。
爆発の原因は、当初は、積んでいた爆弾が崩れたためとされていましたが、60年後2008年に米軍側の公文書が公開されるとそこには信じられない事実が。なんと爆弾の取り扱い規則に反して船上で喫煙があったこと、そばに軽油缶があったこと、黒人作業員が爆弾の上を駆け上がったため崩れたこと、責任者が不在だったこと等々。
作業をしていて犠牲になった米軍関係者はフィリピン人と黒人だけ。伊江島住民にも危険な作業を無償で手伝わせていたこともわかりました。
伊江島に限らず、今でも沖縄には弾薬庫がいっぱい。軍港もあり、生活圏は常に危険と隣り合わせです。
東日本は今でも福島メルトダウン原発からの放射能垂れ流しで非常事態宣言下、住むのは非常に危険ですが、沖縄も安全とは言えません。