森喜朗家父長に威嚇された谷口真由美さん
大島渚が1971年に撮っていた「儀式」という映画を観ました。
戦前から(たぶん明治から?)蔓延り、今も日本全体を支配する「家父長制」という病を、元戦犯が当主をつとめる地方の旧家をモデルに描いています。一族のおどろおどろしい歴史は伝統行事である「儀式」の連続で綴られます。
正月の集まり、盆の行事、結婚式、葬式など、定形儀式としての無内容、空疎さ、馬鹿馬鹿しさは笑えるものですが、我々も昔から参加させられているものです。
そういえば、国会も、選挙も、「民主主義」のふりした儀式。広島平和式典も、フクシマやウクライナ応援も「いい事、いい人」のふりした儀式。徹底的に考えると、通勤、通学、通院、結婚、出産、育児、介護なども社会的「儀式」なのかもしれません。それを定形通りやっておけば安心、というような。
家父長制にとって「儀式」は家族より大事。「儀式」こそすべて。なぜなら、儀式は定形に則り、議論は言語道断、タブーだから。家父長にとっては儀式でこそ自らの存在を誇示し、有無を言わせず親族を威嚇、支配できるからです。
象徴的な事件が昨年ありましたね。
谷口真由美さんは日本ラグビー協会に懇願され、大学教員を辞して理事になりました。が、家父長制が支配する協会で、しっかり仕事しようと普通に質問したり議論を要求したことでおじさんたちに煙たがられ、解任されたそうです。
日本の企業だの協会だの議会だので、社長だの理事長だの大臣だのに向かって本当に議論らしい議論、対等に真の実りある対話ができないのは暴力的な「家父長制」思想が根底にあるからだと思いませんか?
この後進国を支配しているのは憲法ではなく、家父長制だと気づくべきです。