神の島 琉球RYUKYU

豊かで不思議な沖縄の「今」をお伝えします the journal about rich and mysterious Okinawa today

絶望は希望である

今週のお題「手づくり」

 

ワタシには絶望も希望もないけどね

日本だけでなく、世界的に地球的に、政治や経済や司法その他、いろいろなシステムが複合的に破綻していて、根本的に何も解決されず、絶望させられることが多い。

しかし、勝手に絶望「してる」のは私であって、もともと、歴史を見れば民主主義だって民の目くらましのために生まれてきたものだし、国家がやってきたことを冷静に見れば、国民のために機能するなんて自分の勝手な思い込みにすぎない。

大企業はいかにコストを下げて金を儲けるかを目的として存在する。たとえば粗悪な原材料に合成調味料や添加物を加えて味を変え、長持ちする商品を作って売る。それを言うと身もふたもないので、小綺麗なパッケージや楽しげな広告で消費者に「善」のイメージを植え付ける。

公的学校教育システムの真の目的は子どもを企業戦士や兵士にすることであって、ひとりひとりの個性を伸ばすだの、幸せを考えた福祉だなんて親の安易な思い込みである。

学校は米軍機が落ちてきたり、虐めで先生やクラスメートに殺されたりする、子どもにとっては極めて危険な場所なのである。変な刷り込みや奴隷教育がメインなので、できるだけ近づかない方がいいんじゃないかとさえ思う。

 

思い込みはマスメディアや学校や家庭によって、長年に渡って刷り込みされるから恐ろしい。が、ふと考えてみれば、学校で無理やり従順になるように教育され、優劣をつけられ(←これこそ優生思想)自己肯定感がダダ下がったところで、「無能な私でも」雇って「いただける」職場に「有難く」就職し、納税し、住宅ローンという鎖に繋がれ、馬車馬のように働き、次の納税者や兵士を生産するというよく練られた仕組みなのである。

定年後は会社というご主人様を失うので、どうやって生きていったらいいのかわからなくなっている。主人なくしては生きていけない身体にさせられているのである。自分が自分の主人になるなど考えつかないほどに。

 

そこで。思いっきり絶望してみてはどうか。

この際、はっきりと絶望してみてはどうか。

そうすれば、もう上辺だけ善人面をする悪徳政治家にも不経済学者にも無法者にも腹が立たないし、期待しなくなる。自分の貴重なエネルギーを奪われないで済む。きれいさっぱり、ヤクザ連中とサヨナラできるのである。断捨離である。

空いたスペースには新鮮な空気を入れ、深呼吸し、自分自身と自由を取り戻せるだろう。これからは既成概念には頼らない。ひとつひとつ、自分で概念を、世界の意味を作り上げていく。人生を手作りしていく。

試してみる。意外と出来る。希望がわく。その方が身体にも精神にも人生にも良いではないか?試行錯誤しながらも自分で創る人生は良き一生であった、と最期に満足して言えるのではないか?