6月23日は慰霊の日であった。
日本人にとっては何の日だか知る人も少ないが、この日は沖縄人にとっては沖縄激戦がやっと終わった忘れられない日なのである。
とはいえ、ローカルテレビで戦争特集が組まれるくらいで、若い沖縄人にとっては、この日の意味合いは薄れつつあるようだ。
今年この日は日曜日。若い劇作家がクラウドファンディングにより「沖縄戦と平和劇」を作り、てんぶすホールで開催するというので観劇に行った。
映画や動画ばかり見ていて、芝居はひさしぶりであり、戦争体験の生々しい苦しみや悲しみの感情が伝わる臨場感に圧倒された。
そういえば、こんなふうに感情を露わにしたこと、爆発させた最後の日がいつだったのか、思いだせない。何か諦めに似た気分、厭世的な気分が我々を覆い尽くしているようだ。無意識に自分の感情を抑圧し、押し殺して生きているのかもしれない。
自分の感情を殺す、とは自分を殺すことではないか。それは他人を殺すこととどう違うのか。
まったく違わないだろう。自分を殺すことが無意識にできるから、他人だって無意識に殺せるわけである。
沖縄だけでなく日本中から沖縄戦に駆り出された日本兵あり、その日本兵に殺された沖縄民間人あり、お互いにスパイ容疑をかけあう民間人あり・・・。
戦争(悪)の構図は単純ではないことを訴える真に迫る芝居の後、トークセッションがあり、初老の男性が質問した。「みんな戦争のせいでしょう。戦争さえなければ、彼らもいい父親であり、いい母親であったのではないですか」
戦争のせい? 自分は悪くないというおめでたさに驚く。
誰かの何かのせいにすれば、自分は傷つかないし、反省する必要もない。
しかし、戦争のせいにして70年以上が過ぎた。今だに世界では争いが頻発しているし、貧困、難民も人工ウイルスも溢れている。
事態を見る限り、人間の悪は治らないのである。この難病を受け入れること、つまり我々はもともと善人ではないという告知を、まずは冷静に受け入れることから、善に向かって真の進化が始まるのではないか。
現在、我々のデフォルトは悪なのである。そのような設定を理解すると、政治や戦争や医療など利権構造も、就職や結婚の条件構造も非常に納得できる。子どもを東大や大企業に入れたがるのも親の利権なのである。
「誰一人取り残さない政治」とか「寄り添い支援」とか、安っぽい言葉だけが流通しているが、そんな言葉を本気にする人は判断力すら失くしている。
たとえば、入管は人を虐める機関である。死ぬのをわかっていながら、保釈者の就職も認めない。
東京都も人を虐める。ホームレスが眠れないよう、ベンチに手すりをつける。人は今やモノ扱いである。
会社では飲み会など行って仲良しを演出する。が、退職した途端にぴたりと人間関係は絶たれる。それは見事なほどにぴたりと止まる。これもお互いをモノとしか見ていないからだろう。
悪人だらけの世の中で、これ以上毒されないように、せめて悪の「中の上」を目指して生きたいものである。
自分を悪と認識できれば、後は放っておいても善に向かって揺り戻されるのである。振り子の法則と言うそうだ。