神の島 琉球RYUKYU

豊かで不思議な沖縄の「今」をお伝えします the journal about rich and mysterious Okinawa today

国連のキャッチセールス

今週のお題「最近変えたこと・変わったこと」

我われは踊らされている

変わった風景を見た。

先日、那覇の旭橋駅前とデパートりうぼうの前で国連難民高等弁務官事務所を名乗る人がキャッチセールスをしていたのである。

狭い通路でキャッチに立ちふさがれたら、気の弱い人だったら立ち止まってしまうだろう。止まったら最後、国連の思うツボである。

「何だこれ?」と、モノ好きな友人が取材を兼ねて応じたところ、目的は案の定、募金の依頼であった。

 

国連はロックフェラーが作っているし、金ならそっちの方が腐るほど持っているだろう。そもそも難民を生産、増産しているのはロックフェラーなど金融資本家、軍事産業などイルミナティグループなわけだ。

「そんな茶番に何で庶民が金を出さなあかん?」と友人がキャッチセールスレディに突っ込むと、彼女は「私は名古屋から来た派遣社員で、来たばかりなので、ロックフェラーとか言われても何も知りませんので」と答えた。

国連は民間企業に業務委託して募金活動をしているのだ。名古屋とか福岡とかからわざわざ遠い沖縄に派遣されて、莫大な経費を使って募金活動をしている。

調べてみたら、国連は訪問募金セールスもしているという!!

なにかおかしくないか?

東日本大震災の募金活動を、政府が民間企業に委託して行なっていたら大問題になるだろう。同じような構図である。

 

「募金しないなら帰ってください、忙しいので」と友人は言われた。

ユニセフだの赤十字だの、イルミナティはとにかく庶民から金をだまし取り、巻き上げたいらしい。

寄付を募るNGOなどには、しっかり身元調査をしてから応じよう。

大きな名のある団体だからと迂闊に信用してはならない。大きい大胆な嘘ほど、我々は騙されてきたのであるから。

 

 

失敗は薬味である

今週のお題「薬味」

ソーセージノキ       熱帯ドリームセンター

ベランダで紫蘇、バジル、ローズマリー、ミントなどハーブの鉢植えを育てている。

ハーブは虫が付きにくく、料理に使えるので、必要な時にちょっと摘める自家製ハーブは重宝している。

肉や魚を焼いても、サラダでも、ハーブをちょこっと載せるだけで、いつもの一皿がレストラン風に変身。味わいもよそ行きになる。

料理に合わないハーブを入れすぎて失敗したなと思うこともある。

が、これも経験。次回からは量を調節したり、相性の良し悪しを検討する。

 

料理の失敗ぐらいなら諦めやすいが、ちょっと取返しのつかない失敗をやらかすこともあるのが人生。

自分が人間でいること、物質として生きていることのメリットって何だろうと考えた時、「失敗できたこと」ではないかと思う。

生身の肉体を持たなければ、失敗も悲哀も経験できないだろう。

人間だからこそ味わえることが、こうした薬味みたいな感情ではないだろうか。

我われは宇宙に代わって、感情を体験し、蓄積し、放出する生物なのかもしれない。

 

 

 

聖書もでっち上げ!?

今週のお題「こだわりの道具」

ダイナソーサファリ   ジャングリア

知識は道具であると思うが、外から仕入れた知識には気を付けた方がよい。

宗教でも科学でも、「絶対真実」は無いと思った方がよいのでは。

 

デビッド・アイクの「竜であり蛇であるわれらが神々」の上巻(徳間書店)を読んだ。

超太古の時代から、地球には何種類かの高度な文明を持つ異星人が来ていた。彼らはアトランティス大陸、ムー大陸に文明を構築した。

最期にレプティリアン(爬虫類人)型の異星人(アヌンナキ)が地球に定着して秘密結社を作り、遺伝子操作によって地球原住民を彼らの奴隷、もしくは家畜人間として使役したという。

(※レプティリアンと地球産の爬虫類とはまったく異質の生物である)

 

アトランティス文明の根本原理はすべてはひとつという「一者の法則」であり、それに敵対するレプティリアンの宗教は万物を分断分裂させる系統である。

西暦391年、レプティリアンのエージェントであるキリスト教ローマ法王庁がアレキサンドリアの大図書館を破壊し、アトランティスについて記述した「10万年以上にわたる人類の真の歴史」と呼ばれる文書はじめ他の数千の書物とともに破棄。

代わりに世界中の古代伝説を集めて旧・新約聖書をでっち上げ、改ざん、編集を繰り返しながら今日に至るというのである。

 

真実の歴史を隠蔽し、何十億という人々の心を生活を支配し、数千年もの間、世界の大半を隷属状態にしてきた三大宗教=キリスト教、イスラム教、ユダヤ教。

厳格な宗教をでっち上げ、彼らのいう「真理」「神」を信じなければ地獄に堕ちると脅す。

 

しかし、聖パウロもイエスも「新約聖書に書かれた以外には、その痕跡や記録は一切見当たらない。イエスが生きたと思われる時代のイスラエル(パレスチナ)での出来事の記録はあるが、著者の誰一人イエスには言及していない。

新約聖書はローマの貴族ピソ家の創作物だったという説がある。ピソ家はレプティリアンの血流だという。

 

レプティリアンと地球原人は混血を繰り返し、イルミナティ悪魔的秘密結社の中核体を作り、レプの血が濃い人ほど世界権力の頂点に立つ。

この血統によって精神的に制圧され、支配される地球人、さらにその下に家畜人として飼育管理される一般人、という図式ができる。

 

にわかには信じがたい話だし、これもデビッド・アイクからの「知識」である。

しかし、世の中の流れや様々な異常現象、異常事態、我々の劣化ぶりを観察していると、腑に落ちるところもある。

聖書を読んでいても、なぜ神が血生臭い生贄を要求するのか、人間には理不尽なことを言い出すのか、まったく不明であった。が、この「神」がレプだというなら、異常な話もすんなり理解できる。

 

信じられるのは自分だけ。何が真実といって、自分の存在こそが真実なのである。

自分を信じて、大切に磨いていこう。

 

 

 

軽い負荷をかける

今週のお題「梅」

こんな小径はゆっくり歩きたい

昨年はさぼったが、今年は青梅をゲットし、砂糖漬けを作ってみた。

梅を切り刻んで仕込んだので、エキスが一日で出てくる。クローブやシナモン、カルダモンなど賞味期限切れのスパイスを投入、在庫処分しつつ、深い味わいのシロップができた。

紅茶やヨーグルトに入れていただくと爽やかなスイーツになる。実はそのままいただいても美味しいし、醤油に漬けて梅醤油にしても楽しめる。

梅干しを常用するようになってからは胃の調子も良いし、梅は私にとっては万能薬のようだ。もしかしたら癌にも効くのではないかという気さえする。

 

体調が良くなってきたので、軽いスクワットなど筋トレも始めた。

当初は筋肉痛があったが、続けるうちにそれもなくなる。筋肉がついてきたのか?

体は軽い負荷をかけると、体力がついてくるそうである。

目的地へぶらぶらウォーキングするより、ちょっと汗ばむくらいの速足で歩く。すると、なんだかやる気も出てくる。速足で波動も高くなるのだろうか。疲れて夜の寝つきも良いようである。

 

それなら、精神的に軽い負荷をかけるのも、あながち悪くないのだろうか。

自分にとって軽い負荷がかかるくらいの手強い人物とつきあったり、ちょっと難しそうな本を読んだりする方が、精神の成長発展には刺激となるのかもしれない。

 

 

 

 

「シラート」

今週のお題「じゃがいも」

イケてる虫、発見

じゃがいも料理といえばヨーロッパである。

先日、北谷(ちゃたん)のシネマコンプレックスでオリヴェル・ラシェ監督「シラート」というぶっ飛んだヨーロッパ映画を観た。

監督はイスラム神秘派のスーフィ寺院に通っているそうだ。レイヴの電子音と神秘哲学が融合した、欧米インテリ層にウケそうなクールな作りである。

理不尽で悲劇的な人生を辿るレイヴァ―やアフリカン満載の無言列車が、乾いた砂漠をひた走る。欧米人だろうとアフリカ人だろうと、世も末の地球に生きるものはどっちみち運命共同体として運ばれると言っているようである。

規則的な列車の音もまるでレイヴのように響く。この世は電子音に満ちたレイヴ空間なのかもしれない。そして、そこに踊ったり、とろんとした目で放心状態の我々がいる。

 

「シラート」とはイスラム教で天国につながる道のことで、先に行くほど細く通りにくいという。

ほとんどの悩み、執着はエゴである。何かをゲットすれば嬉しいし、所有物を失うと落胆し、絶望感に支配される。当初、出て行った娘をしつこく探し回っているルイスは、娘への執着そのものだった。

そんなルイスに、運命はひどく険しい道を用意する。彼は自暴自棄の時を経て、やがて無心の境地に到達し、砂漠を渡り切るのであるが・・・。

 

無心=天国なのだろうか。

失うものも怖いものもなくなるという天国。

無心=無エゴ=天国なのか。

我々自身の中に天国も地獄もあるということのようである。

 

 

 

「沖縄狂想曲」

今週のお題「最近のラッキー」

 

龍神御嶽の目の前は発電所

「ニッポン狂騒曲」という太田隆文監督の映画が話題であるが、その内容が政治的タブーに触れることから上映中止館が続出しているそうである。

能登半島地震の復興遅れと大阪万博強行の関係と利権、コロナ騒動の真相、安部元総理暗殺事件の闇など、驚愕の真実を解き明かすドキュメンタリーだそうだが、那覇でも桜坂劇場でたった一週間の上映予定である。

 

同じ監督が「沖縄狂想曲」というのも撮っている。

こちらもマスコミが報道しない日米合同委員会という米国への御用聞きサービス、辺野古基地増設問題、太田昌秀元知事の挑戦など、といった内容。

機会があったら見たいと思っていたら、たまたま無料動画を見つけた。ラッキーである。

日米合同委員会の存在は元首相の鳩山由紀夫すら知らなかったらしい。知らないうちに首相の頭上で官僚と米軍が日本のルールをどんどん決めていくという恐ろしい委員会である。

鳩山は外務省官僚に騙されて辺野古基地建設に合意せざるをえなかったわけだが、その後、この嘘をついた官僚を訴追したのだろうか?首相を騙すという国家犯罪を、なぜ徹底的に糾弾しないのだろうか?疑問は残る。

 

辺野古は軟弱地盤により、埋めたて工事費が最終的に二兆五千億円という天文学的数字が見込まれているが、それでもやめられない理由は、麻生セメント(麻生グループは麻生太郎の弟が会長)という利権が絡んでいるからである。さもありなん。

日本人が知らない現実がわかる映画である。

www.youtube.com

 

龍を飼う

今週のお題「私のまわりのすごい人」

そういえば最近、水辺にでかけることが多い

すごい「人」ではないのだが、私のまわりで「龍」を見た人がいる。

先日、レイキの練習会に参加した。

数名でレイキを送り合う練習をしていた際、その中の一人が、私の頭の周りを白い鯉と白い龍がまわっているのが見えたという(!)

白い龍は飛んでいったそうだが・・・。

後日、あれは何だったんだろう、また戻ってきてほしいなあとぼんやり考えていた。

それなりの環境、龍好みの人でなければ寄り付かないのだろうな。

 

そういえば、今年は犬を飼いたかったんだっけ、ふと思い出した。

ペット不可の住まいだから当然叶わぬ夢なのであるが、スケジュール帳もしつこく犬柄にしていたのだった。

とっくに忘れていた年初の淡い願望であったが、もしかしたら、すでに犬じゃないけど龍を飼っているのかもしれないと思った。

なんと凄いペット!?

龍に餌も散歩も要らないが、むしろ飼い主自身の節制や精進を要求する面倒な(?)面白いペットではある。

これは犬以上にスリリングな展開である。

時に宇宙はなんと粋なプレゼントをくれるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

那覇市、終わってる

今週のお題「アイス」

近年、工事用砂の採取しすぎで、砂浜も痩せてきている

今日は本当に凍り付いた。

今秋の首里城正殿完成に向けて、首里城を3度救ったと言われる鎌倉芳太郎の功績を称え、那覇市制施行105周年記念式典において那覇市が芝居を制作・上演するという。

そこで、「なはーと」大劇場に観覧に行ったのだが・・・脚本らしい脚本もなく、感動するシーンもセリフもなく、あまりに底の浅い内容でびっくり、さすが自民党那覇市製作、とある意味納得の舞台であったと言えよう。

 

沖縄の芸術に魅了された鎌倉芳太郎(1898-1983)は沖縄の人ではなく、たまたま内地から赴任した美術教師であった。沖縄芸術・建築の研究成果を内地で発表し、その重要性と保存を訴える。

そこへ、老朽化により首里城が取り壊されるとの話が…消えゆく沖縄の宝を何とか残そうと奔走する。琉球のウナイ神(霊的な守護神)たちの言葉に、光を見出そうとする鎌倉青年。"首里城を2度救った"(令和の復元で3度目)と語り継がれる鎌倉は、のちに人間国宝になったという。

 

結局、首里城を守ったのは沖縄の人ではなく、内地の青年だったのだ。

その羞恥も反省もなく、式典では「守礼の邦の 城下町 歴史の息吹 受け継がん
万国津梁 ここにあり あしたをひらく わが那覇市」と皆に市歌を強要する。

 

この芝居の後に市政功労者表彰があった(私は帰ったが)。

歴史と伝統あるバラックの農連市場を潰し、コンクリートの冷たいビルをぶち上げた城間幹子前市長も「表彰」されるらしい。

この芝居は皮肉なのか。

ほんと、那覇は終わってる。

嘘っぱちの希望など、とっくの昔にないのだ。

それを直視しなければ、本当の希望(?)すら見えないではないか。

 

 

 

 

過去への旅、過去からの旅

今週のお題「旅の計画」

過去に沖展で出会った作品

夜中にふと目覚めてしまう。

トイレに行く。まだ二時か。

眠れなくて、いろいろなことを思い出し笑いしたり、憂鬱になったりする。

ほとんど過去の昔に起きた出来事なのだが、登場人物である自分が今の自分とかけ離れすぎていて、それは本当にあったことなのかどうか疑わしい気がする。

過去の自分と今の自分が同一視できないくらい、価値観も考え方も変化していることが、その疑いに拍車をかけている。

 

今の自分と過去の自分が違う人間なら、同じ記憶を持っているのはおかしいのである。

記憶も変化するはずなのである。つまり、過去は現在の自分によって変えられるのである・・・。

過去を変わらないものとして後生大事に抱え、現在にまで影響を及ぼし続けることを許可しなくてもいいのである。

 

あったかどうかもわからない過去の亡霊に、何時間も無駄に吸い取られているなんて。

しかし、しばしば亡霊と遊ぶのも楽しい余興ではある。

 

 

自由律

今週のお題「春に食べたいもの」

パイナップルパーク

沖縄の春は短いので、春が旬のものは食べ損ねることが多い。

甘くてみずみずしい新玉ねぎなどもっといただきたかったのだが、4月下旬にはすでに入手しにくい。春菊は瞬間的に過ぎ去っていった。

代わって、トマト、パイナップル、パッションフルーツなどが早々に出回っている。島バナナも香り高く美味しい。

 

野菜の価格も落ち着き、買い物のテンションも上がりがちなこの頃である。

つい買いすぎて、冷蔵庫に入りきらないことも。食べ過ぎ注意である。

食べ過ぎても誰も叱ってくれない。運動しなくても注意されない。

怠けていても、掃除しなくても、文句を言われない。

親も教師も子どもを叱らない時代である。他人が気になることをしていようと、眉をひそめるだけである。

人々は緩い規範の中で生きていく。そして、堕落する。

ゲーム中毒になったり、買い物中毒になったり、恋愛中毒になったり・・・。

自分を律するのは自分だけという孤独な時代である。自由に自分を律することができる自由な時代ともいえるのだが。

 

 

 

 

 

私の「旬」

今週のお題「シーズン開幕」

こんがらがった人生


あっという間に2026年も4月後半である。

1年の三分の一が過ぎてしまう。

こんなふうに人生もあっけなく過ぎ去っていくのだろうか。

私に「シーズン」と呼べる華々しい時期はあったのだろうか・・・。

 

若い頃は若かったのであるから、みずみずしいに決まっている。

それが「シーズン」というなら、あまりにも俗っぽく、安っぽい。

 

年を重ねるにつれ、1年前の自分は微妙な距離感のある友人のようであり、5年前の自分は遠い親戚のような。10年前の自分となるともう赤の他人のようである。そのくらい、昔の自分とは離脱感があるのである。

 

宇宙はビッグバン以来膨張しているそうだが、私もどんどん膨張し、以前の自分とは隔たりつつあるようなのである。

どこまで私は膨張するのだろうか。

どこかでストップするのだろうか。

動きを止めない限り、私は日々新しく、「旬」な私であり続けることができるのだろう。

動く=生きることだ。

若い頃が「旬」だったという人は、すでに死んでいるのだろう。

 

 

三島由紀夫「海と夕焼」

今週のお題「おやつ」


沖縄で有名なおやつというと「サーターアンダギー」「ムーチー」とか「ウムクジ」ではないだろうか。

サーターアンダギーは小麦粉をカリッと揚げたもの、ムーチーは月桃の葉に包んだ香りの良いお餅、ウムクジはねっとりした紅芋を揚げたお菓子である。

どれも素朴な味で、庶民により手軽に作られてきたであろうおやつである。

今では月桃の葉も入手しにくいためか、本物のムーチーは市場や道の駅でしかお目にかかれない。紅芋も田芋も生産量が少ないのか、スーパーでは売ってない。

 

おやつのようにサクッと読める三島由紀夫の短編「海と夕焼」がある。

文永の鎌倉建長寺で寺男になっている老フランス人、安里(アンリ)。遥か昔の少年時代に神のお告げに従い、聖地エルサレム奪還を目指した。同志の少年少女たちを率いてマルセイユ埠頭で預言通り海が割れて道ができるように祈ったが、海はいつまでたっても割れなかった。その挫折と絶望を回想する。

奇蹟を待望しながら、祈念が天に通じなかった不思議。奇跡の幻影よりも一層不可解なその事実について、夕焼に染まる海を見ながら安里は考え続けている。

 

三島自身が特に愛着のある短編であるという。

ウイキペディアに、関連する彼自身の解説があったので引用する。

「海が割れるから、そこを通って聖地へ行けるかもしれない。行けるという預言で行ったら、海が割れなかった。そして奴隷に売られちゃったでしょう。その寺男は、年をとってからも、なぜあのとき海が割れなかったんだろう、なぜだろうと考え続けているんですよ。そして海と夕焼けを見るたびに、なぜだろうと考えている。そういう話なんです。(中略)僕の気持ちの中に、なぜ海が割れなかったんだろうという気持ちがあるんですよ。海が割れていたら、僕は聖地に行っていたんですよね。だけど、海が割れなかったから、こうやってホテルなんかで(笑)。それは僕の一種の告白(コンフェッション)なんです。それがこの小説のテーマなんですよ。

 三島由紀夫「ジョン・ベスターとの対談」(1970年2月)」

 
『海と夕焼』は、しかし、私の戦争体験のそのままの寓話化ではない。むしろ、私にとつては、もつとも私の問題性を明らかにしてくれたのが戦争体験だつたやうに思はれ、「なぜあのとき海が二つに割れなかつたか」といふ奇蹟待望が自分にとつて不可避なことと、同時にそれが不可能なことは、実は『詩を書く少年』の年齢のころから、明らかに自覚されていた筈なのだ。— 三島由紀夫「解説」

 

「われらはもはや神秘を信じない。自ら神風となること、自ら神秘となることとは、さういふことだ。人をしてわれらの中に、何ものかを祈念させ、何ものかを信じさせることだ。その具現がわれらの死なのだ。— 三島由紀夫「英霊の聲

 

確かに彼は神秘の存在となったのであるが・・・

 

アブナイところでは、現代ではハルマゲドンを信じる狂信者にも通じるところがあるかもしれない。いつか救世主が現れて、我々は救われるのだと。

しかし、どんなに祈りや犠牲を捧げようが、救世主は現れないのだ。

 

安里が妄信したように、当前のように平和を切望する我々に平和の奇蹟は起きないのだろうか。それが不可能なことを、本当に不思議と思う私もいる。

 

 

 

 

何がニュースかは自分で決める

今週のお題「新!」

北部でセイファー御嶽そっくりさんを発見!   私のニュース


新しいことは良いことなのだろうか。

それなら、古いことは悪いことなのだろうか。

そもそも「新しい」とはどういうことをいうのだろうか。

毎年同じ定番の入学式や入社式で迎える学校生活、会社生活。それは「新しい」ことなのだろうか。

全然古いことではないだろうか。だって、中身が・・・体裁も意識も昔とほぼ変わっていないのだから。

定番の挨拶、定番の歌、定番の装い、定番の目標、定番の方針。どこが「新しい」のだろうか?

「新しい」のは新調した服、ぴかぴかのランドセル、新路線の定期券くらいのものではないか。

 

我々は毎年、何十年も同じ意識を飽きもせず、なぞって生きている。

春が来れば、テレビはイランーアメリカ・イスラエル戦争そっちのけで、桜が咲いたの咲かないのに大騒ぎで、我々を一喜一憂させている。

これのどこが「新しい」のか?

桜前線大騒ぎを「新しい」と思わせ、「これで良い」のだと思わせるマスコミ戦略にはうかうかとはまらないことである。

これこそ「新しい」。

 

 

 

 

「黒の牛」にがっかり

今週のお題「準備していること」

どこでも鳥居が流行ってる   浜比嘉島のシルミチュー

先日、友人に誘われ、桜坂劇場に映画「黒の牛」を観に行った。

パンフレットを見ると「超越的かつ普遍的な瞑想体験」「どこからともなく現れた「私」は、自己という「牛」をさがす旅に出る」「そして「無」の先へー」「内なる宇宙と森羅万象。禅に伝わる「十牛図」から紐解く、大いなる円環」という凄い文句が並ぶ。

 

十牛図の解説も書いてある。牛は「心」や「真理」あるいは「仏性」を象徴し、それを探し、捕まえ、飼いならし、そして超越していく修行者の精神的な歩みを十段階に分けて表現されている絵だそうだ。

 

さぞかし深い味わいのある映画だろうと思って期待したものの、結局、内容は、山から出てきて村に棲みつき、餅を喉に詰まらせて死んだ男の一生であった。

普通に死んで、普通に輪廻を繰り返すことが表現されている。そして、それが真理なのだと言っている(ように受け取った)。

 

え?それでいいの?十牛図って、そんなアンポンタンな解釈でいいの?馬鹿にしてんじゃないのか?

禅を知る友人に聞くと、牛とはむしろ「言葉」の象徴だという。人が生まれて言葉に出会い、言葉を獲得し、揚げ句、空疎な言葉によって不自由になり人生を損なうが、そこから脱却し、改めて真に自由な人生に目覚める(生き直す)という、修行者だけでなく我々誰もが通る道である、とのことである。これはこれで、簡単に説明しすぎて誤解を招くかもしれないが、ともかく、単なる安易な輪廻転生の話ではないのだ。

 

蔦哲一郎監督が、一応臨済宗大本山・妙心寺の僧侶各位の協力を得て制作しているという。それでこの内容!?しかもどっかの映画祭のグランプリ受賞だそうで、二度びっくりである。

70ミリフィルムを使ってかなり映像にこだわっているそうだが、だからといってアンポンタンな内容が打ち消されるわけではない。

百害あって一利なしの映画ではないか。結構多く詰め掛けた観客に、明らかに間違ったメッセージを伝えている。偉大な十牛図を貶めている。

 

昨今は毒ワクチンを勧める医者といい、洗脳する教育者といい、デマを拡散するマスコミといい、売国政治家といい、十牛図も理解してない禅僧といい、プロフェッショナルがことごとく信用できない時代である。

何もかも自分で一から準備するしかないのである。ある意味、自由といえば自由なのであろうか。

 

 

 

自己教育

今週のお題「大きな買い物」

八重瀬公園の緋寒桜

大きな買い物というと住宅とか車とか、金額のはる「物」をイメージしがち。だが、「教育」や「保険」にも意外と何百万も何千万もつぎ込んでいるものである。

 

月1万円の保険でも年間12万、満期まで40年払うとすると480万円である。勧められるまま特約をつけると軽く月2万円を超え、総額1000万円近く払い、ほぼ掛け捨てに近いのだが、ここまで計算している人は少ない。

こんなに払っているのかと途中で気づいて青ざめるが、途中解約は非常に不利な仕組みになっており、踏ん切りがつかずにズルズル続けてしまう。

 

教育についても、幼稚園や小学校は親の指示で選べなかったが、中学以降はちゃんと自分で納得するところを選ぼうと思えば選べたのである。が、何となく周りの勧めや就職を念頭に決めてしまった。

これも私立など選択するとかなりの出費であるが、その投資に見合った結果を得られたかというと、ほとんど無い。だいたい学校というものは、人間を教育によって豊かにするというよりも、企業を豊かにするサラリーマン養成所なのである。

そんなところに金も時間も割き、雨の日も風の日も通っていたなんて。鴨ネギとはこのことか。特に、若かりし頃のみずみずしい吸収力のある時間が、もったいないことに費やしてしまった。

本当に生涯最大の浪費だったと悔やまれる・・・。

 

学校を卒業してだいぶ経ってから、シュタイナーの自己教育に関する本を読み、そんなことに気づいた。他人の洗脳でおめでたい人生を歩んできた私は、そこから自分で自分を教育しなければいけないのだと思った。

他人に自分の教育を任せようなんて、考えが甘いのであった。他人に任せたら、基本、詐欺にあうだけなのである。

高校無償化などにより、さらに子どもたちの時間を奪おうという魂胆が見える。タダほど魅力的で怖いものはない。ワクチンとかね。

 

教育詐欺、これも体験型の「学び」と思って諦めよう。そして、早く立ち直って、自分で自分の「教育」を始めることをお勧めする。人生はそんなに長くないのだから。