先日、ジャーナリスト安田浩一氏の著書文庫化記念トークイベントがありました。
琉球新報、沖縄タイムスは「米軍基地賛成派の意見を封殺している」「事実を捻じ曲げた報道をしている」などと保守派やネトウヨなどからしつこく攻撃されています。
しかし、沖縄の新聞が偏向しているというなら、読売新聞や産経新聞は偏向の極みではないか?しかし、読売や産経が叩かれることはありません。なぜなら彼らはマジョリティだから。右翼の一大勢力ですからね。叩いたら怖いです。
では正しい報道とは何なのか?右派、左派両方の取材記事を同じスペースを割いて載せれば中道なのか?それは違う、と安田氏は言います。マジョリティからマイノリティの権利を守るため、マイノリティにこそ紙面を割き、偏狭なマジョリティの理解を促すべきなのです。それこそ本当に、ぼんやりしたマジョリティのために役立つ報道だと思いませんか?マジョリティが一生無知なままなのは、戦中から変わらないマジョリティメディアのせいでしょう。
「社会的力関係からヘイトスピーチは生まれる」と安田氏は言います。沖縄の新聞が叩かれるということは、沖縄人が叩かれるということ。お金も力もある本土の人々にとって、「お金も力もないくせに」文句をいう沖縄は叩いても蹴ってもいい存在なのでしょう。
以前、車椅子のマイノリティ伊是名夏子さんが公共機関JRに乗車拒否され、移動の自由を主張したところ、「障害者のくせに出歩くな」「駅員の仕事を増やすな」などとマジョリティからバッシングされた事件がありましたね。
アメリカでは1950年代にローザ・パークスという黒人女性がバスで白人に席を譲らなかったことが発端となり、人種差別問題としてマイノリティの目を覚まし、マジョリティにも訴えた事件がありました。
これらはすべて同じ構造の問題です。人類はよく飽きもせず、というか血のめぐりが悪いのか、同じ歴史を繰り返していますね・・・。
なぜ席を譲らなかったのか理由を問われたローザは「ただ疲れていたの。(白人に)屈服することに疲れたのよ」と言ったそうです。
鬱でもなく、引きこもりでもなく、なんとまあ、正しい疲れ方があるのだな、と感心しました。自分の素の「感覚」という物差しを信頼し、新聞より大事にしたいものです。
『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』書評 基地と人権、記者は問い続ける|好書好日