ものを買うと、興奮してアドレナリンが一瞬上がるが、すぐに低下してしまう。
ことを買うと、思い出として記憶に長く残る。体験したその時だけでなく、後から反芻し、味わえる。
体験した意味も、後になって経年変化することがある。
しょっぱい出来事も、ほんのり甘酸っぱい旨みが出たりするのだ。漬物みたいに。
先日初めてスカッシュなるものを試してみた。
壁に思い切りボールをぶつける爽快感で、一時間夢中になってしまった。
その後暫く続いた筋肉痛もほろ苦い思い出だ。年相応の体との付き合い方を考えるきっかけになったりする。
一方で、経験すれば何かが得られるとも限らない。
沖縄県は辺野古埋め立て承認を拒否し、先日、国による「代執行」を裁判所が命令した。福岡高裁那覇支部だが、遺骨返還訴訟の青白メガネの福渡裕貴裁判長といい、今回のヤクザ風の三浦隆志裁判長といい、ろくに弁論も行わず判決ありきのやり方で仰天する。
そう、裁判所なのに弁論がほとんど無いのだ。驚いた。出廷者が各自作文を読み上げるだけなのだ。次回の日取りを伝える3分間のために召集されることもあり、傍聴者全員絶句したこともある。
今の裁判所というのは血も涙もなく、適当に法解釈を振り回せば、何でも為政者の思い通りになるというわけである。
法が国民を守るものではなく、国を守るものになっているのである。まあ、由来を考えれば当然のなりゆきか。
法律は国家の人工物だが、血や涙は人間には創れない。なぜもっと尊重できないのか。
今回の判決に、国交省大臣は「防衛省の管轄ですから(知ったこっちゃありません)」とにべもない。県民の不幸にも、海の生物にも、環境破壊にもまったく我関せずなのである。
裁判を傍聴するほど、参加するほど、徒労感だけが増える。これこそ為政者の狙いなのだろう。我々を疲弊させ、所詮権力者にはかなわないと思わせるためだ。
確かに原発や基地、国が被告の裁判はいくら争っても無駄であることが、長年の経験値として誰の目にも明らかである。
弁護士も無駄とわかっているのに、よくやるなと思う。社会的な訴訟はマスコミに取り上げられ、売名になるからだろうか。
とすると、やはりたかられているのは庶民・・・いつも庶民なのである。
もう、「なんちゃって裁判」なんかに頼るのやめて、人や時間などリソースを他のもっと自分の大事なことに使った方が有効だし、人生が充実すると思うのだが。
公害訴訟などやるべき時にやっとかないといけないアリバイ裁判もあるけれど・・・
利用者がいなけりゃ裁判所だってコンビニだって潰れるのである。
我々のことは、我々が解決できるようになればいいのである。いちいち法に照らさなくたって、善いことは善いし、悪いことは悪いのである。
今の裁判所になくて我々にあるもの、それは倫理ではないか。
なんだ、自立すればいいのか。
たとえ法的に勝ったとしても、倫理に照らして負けているのは国なのである。
これも経験による学びとしよう。
買ってよかったものは特にないが、よかったことはある。
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