本部港からフェリーで30分の伊江島。そこにひっそりと反戦資料館「ヌチドゥタカラの家」が建っています。(ヌチドゥタカラ=命は宝)
伊江島には日本軍が作った飛行場があったため、1945年に上陸した米軍はこれを狙って戦闘へ。住民1500人の命を奪い、生き残った住民も捕えて慶良間諸島へ強制移住させました。2年後、島に帰ることができた人々が目にしたのは、破壊し尽された島の惨状でした。
荒れた土地を耕し、小屋を造り、何とか生活を立て直そうとしていた1955年、再び米軍がやってきて、真謝部落の住民に立ち退き命令を出します。住民を無視し、家を焼き払い、ブルドーザーで畑を潰し、基地を建設していったのです。
土地を奪われた住民は沖縄本島にある琉球政府まで出向き、ボロボロの服を着て「乞食行進」し、非暴力の抵抗運動で土地の返還を訴え続けました。そのとき住民の先頭に立ち、誇り高い運動方針を掲げ導いたのが阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんです。
権力者は嘘をつく。だから阿波根さんは陳情文、会議記録や手紙、新聞やスクラップ、写真、フィルム、民具など公私にわたる記録や資料を残しており、その一部がヌチドゥタカラの家に展示されています。
B29が落とした爆弾も展示されており、その後、これとそっくりな不発弾らしき物を阿良ビーチでシュノーケリング中に発見して仰天しました。地元の子どもや観光客が普通に遊んでいる浅瀬で、です。
当時は島の67%が米軍基地となり、訓練機墜落爆発事故や射殺事故などが絶え間なく続きました。今は島の35.2%は米軍射爆場、飛行場として占領されています。多少なりとも返還されたのは阿波根さんたちの粘り強い運動があったからこそでしょう。
が、この自宅資料館を除いて、伊江島には阿波根さんをオフィシャルに讃え、偉業を語り継いでいこう、子孫への宝としようという姿勢が、残念ながらまったく感じられないのです。
伊江港に着いた客の目に真っ先に飛び込むのは、島に交付金を持ってきた政財界の人物の名を連ねた記念植樹ばかり。そりゃあお金も大事でしょうが、阿波根さんの島を守ってきた功績を忘れてませんか?
伊江島と何の関係もない(ただ島で亡くなったというだけの)アメリカ人記者のバカでかい墓が観光地として推奨されていたり、ちょっと意味がわかりませんでした。
大丈夫か?伊江島の皆さん!阿波根さんは島の宝なんですよ!!と揺さぶりたくなります。