神の島 琉球RYUKYU

豊かで不思議な沖縄の「今」をお伝えします the journal about rich and mysterious Okinawa today

アゴタ・クリストフ

市街地にもオオゴマダラがひらひら

映画「悪童日記」を観て原作を読みたくなり、ハンガリーからスイスに亡命した作家アゴタ・クリストフ著「悪童日記」、続編の「ふたりの証拠」「第三の嘘」を一気に読んでしまった。

リュカとクラウスという双子が戦中戦後に過酷な人生を辿り、その手記を事実のみ残すという話なのだが、勢いで読んでしまうと、あちこちに出没する双子、上下左右すれ違い、どっちがリュカでどっちがクラウスなのか、そもそも二人は双子だったのか、誰が誰のことを書いているのか、いつのまにか奥深い迷宮に入ってわからなくなってしまう。

ラストは突然、衝撃的な結末なのだが、既に双子の綴る乾いた「人生=物語」みたいな境地に入っていて、静かに受け止められる。そしてこの時点になっては、リュカやクラウスがどこに存在してもしなくても「それもアリだな」という宇宙的・量子論的気分になってしまった。

 

量子論では「シュレディンガーの猫」や「二重スリット実験」が知られている。私の理解では、放射線を50%の確率で当てる実験装置の中に閉じ込められた猫は生きているし死んでもいるというのが「シュレディンガーの猫」である。装置の蓋を開けて観察者が「観察」してはじめて、猫が生きてるか死んでるか決定されるという。

「観察」しなくたって、装置の中の猫は死んでる場合は死んでいるし、生きてる場合は生きている「だろう」と考えるのが普通だ。しかしこれは推測、つまり妄想なのだ。

思えば人は妄想の生き物だ。朝から晩まで妄想している。過去や未来を妄想し、目の前にいない人のことを妄想し、抽象的な社会や政治や病気を妄想し、今ここにある現実を観察していないことが多い。

ここでふと疑問が。妄想を「観察」するっているのはどうなんでしょうか?「観察」されることによって、妄想が妄想として正しく認識されるわけですね。

 

リュカとクラウス、そして「私」。「私」が観察していないと、リュカとクラウスはいるとも言えるしいないとも言える。

観察は書き記すことでもある。

「すべての人間は一冊の本を書くために生まれたのであって、ほかにはどんな目的もないんだ。天才的な本であろうと、凡庸な本であろうと、そんなことは大した問題じゃない。けれども、何も書かなければ、人は無為に生きたことになる。地上を通り過ぎただけで痕跡を残さずに終わるのだから」とクリストフは登場人物に語らせている。

リュカもクラウスも「私」に記されることによって結晶化し、確かにあちこちに存在したのだろう。

 

「書けば書くほど、病は深くなるのです。書くというのは、自殺的行為です。それでいて、避けることのできない、必然的な行為なのです」とクリストフはインタビューに答えている。戦禍を生き、亡命後も絶望を経験した人の言葉である。

「書かなければ、生きる理由はありません。書かなければ、なんて退屈なんでしょう。何をしていいやらわかりません・・・」